2008年08月30日
讃岐国分寺探訪の記
さる6月、総務省の外郭団体・地域活性化センターが主催する中心市街地活性化をテーマとした実践塾「丸亀町」周辺を視察し、
中心市街地である常盤街一体の荒廃ぶりを見つつも、そのなかでも踏ん張っている老舗が存在することと行政区画の番町との一体性がないことを残念に思った。
高松市に編入された「国分寺町」について、かねてより関心を持っていて今回尋ねる機会を得た。
また素晴らしい案内人によって未調査ながら、
以下の紀行文1,を
1.和銅3年(710)の平城宮遷都後、延暦3年(784)長岡京に移るまで70
年間の国都から実行された画期の一つとして、天平13年(741)、聖武天皇
による国分寺建立の詔が挙げられる。
当時先進的な思想であるとともに多様なインフラ技術を伴っていた仏教という鎮
護国家の装置を日本国土に普及しようという試みであった。その多くが二町四方
で中門と金堂を回廊でつなぎ、7重の塔に講堂、僧房を配し、南に門を開くとい
う東大寺を小型にしたような構造で、中国歴代唯一の女帝・則天武后の仏教政策
に私淑した光明皇后の発案ともされ、国分尼寺を伴っていた。
国家的事業として建立されたものの、中枢であった東大寺を除いて、現在はそ
の姿をとどめていないとはいえ、その土地の先進的な文化的拠点になり、昨今で
は、史跡整備を通じて歴史学習や地域づくりの拠点にもなりつつある。
この中でも、古代の幹線道路であった南海道(四国と淡路、紀伊を含む)の
讃岐国分寺跡http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/kokubunzi/kokubunzi/kokubunzi.htmは特別史跡として奈良文化財研究所の指導のもとで整備され、同地
で国分寺ゆかりの市町村長らが集まってサミットが開催されたこともインターネ
ットで確認したが、その当時の自治体の大半は市町村合併で消滅している。
総務省の外郭団体である地域活性化センター主催(高松市共催、香川県後援)に
よる地域再生実践塾が6月26日から3日間の日程で中心市街地活性化事業の成
功例として注目を集めている香川県高松市で開催された。同市の玄関にあたる丸
亀町というアーケード街の事例がテーマだが、そこで渡された市の観光案内に、
市町村合併により、昨年、高松市に編入された讃岐国分寺跡と資料館の紹介は掲
載されていなかった。
国分寺の手前には鬼無(きなし)という桃太郎伝説を備えた地区があり、一体
は近郊農業と、盆栽の出荷で全国的に知られる田園地帯である。
「国分」(こくぶ)という無人駅の窓からは、国分寺町が綾歌郡という、菊池寛
の小説にも登場する美しい名前の郡に属していたときに作られたと推定される数
メートル四方の国分寺案内地図があるのだが、ホームから長い高い陸橋を渡って
駅舎にたどりつき駅前の観光案内板を見ても国分寺跡資料館への路程はよく分か
らない。
松の木が高々とよく茂った一画が視野に入り、寺であろうと推定、ここを目当て
に歩く途中に郵便配達員が丁寧に教えてくださったが、寺に着いても寺域が広す
ぎるためか、さまざまな奉納石塔や石仏の群れの中をさまよって時間を費やして
いた。
お遍路さんを対象として設けられたのであろう障害者作業所による休憩所が門前
にある。そこで働く人がわざわざ外に出て方向を指し、「児童公園があって」と
丁寧に教えてくれた。郵便配達人はY病院を入ったところという表現をしていた
が、児童公園を目印として意識している人もいるということをゆかしく思った。
ようやく、国分寺跡という石に刻まれた標識と説明板にめぐり合えた。
復元築地塀に隣接して大安寺式伽藍配置による10分の一の石造模型が立つ。木
造による復元は平城宮跡復元建物のほか全国の国分寺跡のうち、いくつかで実施
されているが、実物大の東築地塀の近くに立つ石の伽藍は異彩を放つ。
讃岐国分寺跡の発掘調査のうち、この僧房跡は、東西88m、16mの基壇上に東
西84m(21間)、南北12m(31間)の東西棟であり、国分寺の僧房として全
国最大級であるばかりでなく、東大寺戒壇院北室に似た内部構造までも復元でき
た全国的にも珍しいものという。
石の模型を眺め、僧房跡に立つ、半分の復元建物と礎石の周囲を観察し、資料館
に向かおうとしたときに、地元の熟年女性が「ご案内しましょう」と声をかけてくださった。
以後地元の女性たちの気脈の通じた会話を交え、あたかも霊場めぐりのお接待
も加わり創建以来1250年以上の時間を満喫できた。
まず、先ほど、国分寺整備では類例のない石造模型の異彩の謎が「近くに古くか
ら石工さんたちが住んでおられて、それで石の模型となったそうです」という一
言で氷解した。
この石工の手技はこの土地の幼児教育の先覚者の顕彰にも残っていた。
牟礼町と庵治町という良質の石材産地である東部は世界的彫刻家イサムノグチ
が足跡を残しているがここから北西に延びる南海道の讃岐地区の国府がおかれた
中心地区の隣接地もサヌカイトなど石材に恵まれている。大地から湧き出たよう
な情熱や慈愛のこもった石の造形が、きっと随所にあるのだろう
四国八十八霊場の第80番札所である真言宗御室派・国分寺境内は、お遍路さん
の読経と香煙が絶えないが、国分寺跡に併設されている資料館には団体をのぞい
て、一日10人もくればよいほうだという。
芳名帳を見ると、東京国分寺市、栃木県国分寺町など、国分寺ゆかりの土地の人
々の来訪が目立ち、それは全国に及んでいる。
この讃岐国分寺、平安時代になっても幾つか未完成の地方もあったのに対して、
建立の詔(741)から10数年後にはすでに完成し、平城宮と同じ鬼瓦が棟先
を飾っていた。常に国の政策に敏感であるこの土地の気質は古時代からのようだ。
もう一つ西にある讃岐府中(坂出市)という駅の近くに当時の地方政庁があり、
菅原道真が国司として4年間赴任。崇徳上皇が配流されるなど歴史のドラマが展
開する。県都・高松16世紀後半、生駒親正が秀吉の命により築城の基礎を整え
る何世紀も前から宇多津など良港に恵まれた西部も東部も、先進文化が開けてい
た。
天平時代創建された国分寺の旧講堂の上に鎌倉中期に建設された本堂(国重文)が
立つ。
四国八十八霊場には讃岐、伊予、阿波、土佐4つの国分寺が含まれている。
うち、伊予国分寺と、これに隣接した法華寺はともに奈良・西大寺(真言律宗総
本山)と末寺であり、讃岐国分寺は西大寺四世長老を招いて再建の落慶法要を行
っている。
奈良との関係は中世も連綿と続いていたのである。
記念館からの帰り道、一面田園のこの周辺ではよく見受けられる苗が置かれた水
田があった。翌日に地元の小学生が古代米「赤米」を植えるのだという。
毎年11月3日の文化の日に国分寺祭りが開催され、サヌカイト演奏や、子供た
ちがこの田んぼで育てた赤米のふるまいなどがあり、昨年からは40万都市のイ
ベントとして賑わいも拡大しているという。それはもっと大きくなってもよい祝
祭イベントであると思う。
「沙羅(しゃら)の花が咲いているんですが・・」と案内をしてくださった女性
が境内を去り際にいった。
「沙羅を見に来られる途中だったのですね」
「沙羅の花は寺院以外にはあまり咲いていなくて・・」
夏椿と呼ばれる椿に似たこの沙羅は釈迦が亡くなったときに傍に生えていたとさ
れる熱帯性の沙羅双樹とは全く異なる。インドにあこがれたある僧侶が、この清
楚な夏椿を勝手に沙羅と思い込んでしまってそのまま通用しているのだそうだ。
寺院以外ではあまり栽培されないということは樹木の大きさのわりに花が小さく、
鑑賞するためには精神的なゆとりやたっぷりとした場所を必要とするためであろうか。
先ほど境内をさまよっていても気付かなかった、黄色い花芯と蝋のように白い5
つの花弁がまだ固いつぼみをつけた枝に混じって幾つか揺れていた。
2.幼児教育の先覚者の顕彰碑
これらは「中山永八先生」の石像と句碑です。先生は明治の終わりから25年間橋
岡小学校(現北部小学校)の先生をつとめ、その後も多くの人に俳句を通して、
徳育を広められました。
その教えを受けた人々が、先生への感謝とその徳をたたえ、昭和14年、国分の妙
見神社へ建立しました。
昭和19年には、戦争が激しくなり
国道が滑走路になったため、当時の端岡国民学校へ移転しましたが、その後、昭
和57年に当館建設にともない、先生の生まれ故郷である当地へ移転されました。
夜は水の
空とも見えて夏の月
永八(雅号)
中心市街地である常盤街一体の荒廃ぶりを見つつも、そのなかでも踏ん張っている老舗が存在することと行政区画の番町との一体性がないことを残念に思った。
高松市に編入された「国分寺町」について、かねてより関心を持っていて今回尋ねる機会を得た。
また素晴らしい案内人によって未調査ながら、
以下の紀行文1,を
1.和銅3年(710)の平城宮遷都後、延暦3年(784)長岡京に移るまで70
年間の国都から実行された画期の一つとして、天平13年(741)、聖武天皇
による国分寺建立の詔が挙げられる。
当時先進的な思想であるとともに多様なインフラ技術を伴っていた仏教という鎮
護国家の装置を日本国土に普及しようという試みであった。その多くが二町四方
で中門と金堂を回廊でつなぎ、7重の塔に講堂、僧房を配し、南に門を開くとい
う東大寺を小型にしたような構造で、中国歴代唯一の女帝・則天武后の仏教政策
に私淑した光明皇后の発案ともされ、国分尼寺を伴っていた。
国家的事業として建立されたものの、中枢であった東大寺を除いて、現在はそ
の姿をとどめていないとはいえ、その土地の先進的な文化的拠点になり、昨今で
は、史跡整備を通じて歴史学習や地域づくりの拠点にもなりつつある。
この中でも、古代の幹線道路であった南海道(四国と淡路、紀伊を含む)の
讃岐国分寺跡http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/kokubunzi/kokubunzi/kokubunzi.htmは特別史跡として奈良文化財研究所の指導のもとで整備され、同地
で国分寺ゆかりの市町村長らが集まってサミットが開催されたこともインターネ
ットで確認したが、その当時の自治体の大半は市町村合併で消滅している。
総務省の外郭団体である地域活性化センター主催(高松市共催、香川県後援)に
よる地域再生実践塾が6月26日から3日間の日程で中心市街地活性化事業の成
功例として注目を集めている香川県高松市で開催された。同市の玄関にあたる丸
亀町というアーケード街の事例がテーマだが、そこで渡された市の観光案内に、
市町村合併により、昨年、高松市に編入された讃岐国分寺跡と資料館の紹介は掲
載されていなかった。
国分寺の手前には鬼無(きなし)という桃太郎伝説を備えた地区があり、一体
は近郊農業と、盆栽の出荷で全国的に知られる田園地帯である。
「国分」(こくぶ)という無人駅の窓からは、国分寺町が綾歌郡という、菊池寛
の小説にも登場する美しい名前の郡に属していたときに作られたと推定される数
メートル四方の国分寺案内地図があるのだが、ホームから長い高い陸橋を渡って
駅舎にたどりつき駅前の観光案内板を見ても国分寺跡資料館への路程はよく分か
らない。
松の木が高々とよく茂った一画が視野に入り、寺であろうと推定、ここを目当て
に歩く途中に郵便配達員が丁寧に教えてくださったが、寺に着いても寺域が広す
ぎるためか、さまざまな奉納石塔や石仏の群れの中をさまよって時間を費やして
いた。
お遍路さんを対象として設けられたのであろう障害者作業所による休憩所が門前
にある。そこで働く人がわざわざ外に出て方向を指し、「児童公園があって」と
丁寧に教えてくれた。郵便配達人はY病院を入ったところという表現をしていた
が、児童公園を目印として意識している人もいるということをゆかしく思った。
ようやく、国分寺跡という石に刻まれた標識と説明板にめぐり合えた。
復元築地塀に隣接して大安寺式伽藍配置による10分の一の石造模型が立つ。木
造による復元は平城宮跡復元建物のほか全国の国分寺跡のうち、いくつかで実施
されているが、実物大の東築地塀の近くに立つ石の伽藍は異彩を放つ。
讃岐国分寺跡の発掘調査のうち、この僧房跡は、東西88m、16mの基壇上に東
西84m(21間)、南北12m(31間)の東西棟であり、国分寺の僧房として全
国最大級であるばかりでなく、東大寺戒壇院北室に似た内部構造までも復元でき
た全国的にも珍しいものという。
石の模型を眺め、僧房跡に立つ、半分の復元建物と礎石の周囲を観察し、資料館
に向かおうとしたときに、地元の熟年女性が「ご案内しましょう」と声をかけてくださった。
以後地元の女性たちの気脈の通じた会話を交え、あたかも霊場めぐりのお接待
も加わり創建以来1250年以上の時間を満喫できた。
まず、先ほど、国分寺整備では類例のない石造模型の異彩の謎が「近くに古くか
ら石工さんたちが住んでおられて、それで石の模型となったそうです」という一
言で氷解した。
この石工の手技はこの土地の幼児教育の先覚者の顕彰にも残っていた。
牟礼町と庵治町という良質の石材産地である東部は世界的彫刻家イサムノグチ
が足跡を残しているがここから北西に延びる南海道の讃岐地区の国府がおかれた
中心地区の隣接地もサヌカイトなど石材に恵まれている。大地から湧き出たよう
な情熱や慈愛のこもった石の造形が、きっと随所にあるのだろう
四国八十八霊場の第80番札所である真言宗御室派・国分寺境内は、お遍路さん
の読経と香煙が絶えないが、国分寺跡に併設されている資料館には団体をのぞい
て、一日10人もくればよいほうだという。
芳名帳を見ると、東京国分寺市、栃木県国分寺町など、国分寺ゆかりの土地の人
々の来訪が目立ち、それは全国に及んでいる。
この讃岐国分寺、平安時代になっても幾つか未完成の地方もあったのに対して、
建立の詔(741)から10数年後にはすでに完成し、平城宮と同じ鬼瓦が棟先
を飾っていた。常に国の政策に敏感であるこの土地の気質は古時代からのようだ。
もう一つ西にある讃岐府中(坂出市)という駅の近くに当時の地方政庁があり、
菅原道真が国司として4年間赴任。崇徳上皇が配流されるなど歴史のドラマが展
開する。県都・高松16世紀後半、生駒親正が秀吉の命により築城の基礎を整え
る何世紀も前から宇多津など良港に恵まれた西部も東部も、先進文化が開けてい
た。
天平時代創建された国分寺の旧講堂の上に鎌倉中期に建設された本堂(国重文)が
立つ。
四国八十八霊場には讃岐、伊予、阿波、土佐4つの国分寺が含まれている。
うち、伊予国分寺と、これに隣接した法華寺はともに奈良・西大寺(真言律宗総
本山)と末寺であり、讃岐国分寺は西大寺四世長老を招いて再建の落慶法要を行
っている。
奈良との関係は中世も連綿と続いていたのである。
記念館からの帰り道、一面田園のこの周辺ではよく見受けられる苗が置かれた水
田があった。翌日に地元の小学生が古代米「赤米」を植えるのだという。
毎年11月3日の文化の日に国分寺祭りが開催され、サヌカイト演奏や、子供た
ちがこの田んぼで育てた赤米のふるまいなどがあり、昨年からは40万都市のイ
ベントとして賑わいも拡大しているという。それはもっと大きくなってもよい祝
祭イベントであると思う。
「沙羅(しゃら)の花が咲いているんですが・・」と案内をしてくださった女性
が境内を去り際にいった。
「沙羅を見に来られる途中だったのですね」
「沙羅の花は寺院以外にはあまり咲いていなくて・・」
夏椿と呼ばれる椿に似たこの沙羅は釈迦が亡くなったときに傍に生えていたとさ
れる熱帯性の沙羅双樹とは全く異なる。インドにあこがれたある僧侶が、この清
楚な夏椿を勝手に沙羅と思い込んでしまってそのまま通用しているのだそうだ。
寺院以外ではあまり栽培されないということは樹木の大きさのわりに花が小さく、
鑑賞するためには精神的なゆとりやたっぷりとした場所を必要とするためであろうか。
先ほど境内をさまよっていても気付かなかった、黄色い花芯と蝋のように白い5
つの花弁がまだ固いつぼみをつけた枝に混じって幾つか揺れていた。
2.幼児教育の先覚者の顕彰碑
これらは「中山永八先生」の石像と句碑です。先生は明治の終わりから25年間橋
岡小学校(現北部小学校)の先生をつとめ、その後も多くの人に俳句を通して、
徳育を広められました。
その教えを受けた人々が、先生への感謝とその徳をたたえ、昭和14年、国分の妙
見神社へ建立しました。
昭和19年には、戦争が激しくなり
国道が滑走路になったため、当時の端岡国民学校へ移転しましたが、その後、昭
和57年に当館建設にともない、先生の生まれ故郷である当地へ移転されました。
夜は水の
空とも見えて夏の月
永八(雅号)
Posted by こくぶん at 12:15│Comments(0)
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