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2009年01月22日

Requiem for Jan 17 Kobe 1995

Requiem for Jan 17 Kobe 1995 and All
和銅1302年正月17日午前(Translation will appear later)

阪神淡路大震災から14年。
震度5に猫とともに揺れた奈良在住の飼い主も、毎年、不思議なまでに
深い共感とともに慰霊の思いを持つ。

これに先立つ1月14日、仏教美術の殿堂・奈良国立博物館で、各社寺から委託安置されている仏像などを供養する法要が東大寺僧によって行われることを、たまたま前日のテレビで知り、
さまざま用事を兼ねて、出向いた。この模様は夫妻で参加した高齢の方のブログにも登場する。http://kangetsu.exblog.jp/9412029

やや遅れて到着したところ、弥勒如来前に祭壇を設け、50席ほどパイプ椅子を並べ、関係者たちが掛けていた。しばらく立ち見をしていたが、外国人青年が入ってきて、席を譲られたので、座す。
 フランス人であるということ。以後の会話でわかったのだが、法律を専攻していて、外交官志望で、現在、東京のフランス大使館で6月までの予定でセキュリティ関連の仕事に従事、15日間の休暇を得て、広島、九州経由で回り、京都のユースホステルに滞在して、奈良観光、彼は行く先々で寒波に遭遇して、九州は温暖だと思っていたが、寒く、そして、奈良も寒くてやや雨気配でもあったので博物館に駆け込んで、法要に遭遇したのだという。

 東新館で18日までおんまつり関連、特に田楽の展示をしているので、とりあえず見聞。ボランティアガイドの男性が、その時点において私を含めて唯二の観客である外国人青年におんまつりを説明しているが、いくつか補足したい点があり、時折サポートをしたが。最後の方に春日曼荼羅図があったので、「かつて、中世に神仏習合が進み、春日社と興福寺は一体の存在であった。おんまつり始まりの最も確からしい説としては、当時流行っていた田楽や猿楽を存分に楽しみたいと考えた興福寺が春日社の4神のうち第3神と第4神に子供ができたという話を作り、この神をもてなすための「宴会」として祭礼を設定した。明治維新に神仏分離・廃仏毀釈となったので、春日大社の祭りとして継続された(さらに戦後は「市民の祭り」として進駐軍も乗り越えたは割愛)」と説明。(それにしても、どうして、図録が税金を用いて制作されているのに、展示空間に置かないのだろうか。以前、漆芸の選定技術保持者である北村照斎氏の展覧会では会期の初期に、奈良女子大の裏門近くにある長春亭で学芸スタッフたちを誘った副館長にお会いしたのでお伝えしたところ、最後の日に見にいったときには展示室に、この館としては、珍しく図録がおかれ、よく読まれたのであろう手垢がまんべんなくどのページにも付いた様を実に嬉しく思い、購入しようと思ったが、図録は完売したとのことであった)。
 
 私は次の部屋に進んでゆっくり国宝や重文の絵画を眺めていたところ、青年が近づいてきた。ちょうど鳥居の描かれた春日大社の荘園の絵図があったので、祭りの経済基盤についても説明。

 諸仏教の祖師たちの像の前で「これは華厳宗をまとめた中国の僧」「浄土宗を始めた僧、日本では中世に京都で盛んになりました」。
 
 そして、「おお、これは、南都仏教を鎌倉時代に一大復興した西大寺僧・叡尊(えいぞん)の肖像。ところで、先ほどのおんまつりを楽しむことが僧本来の仕事であると思いますか?もちろん豊かな文化創造をもたらしたとはいえるものの。こういう仏教寺院の華やかさの一方で、僧本来のあり方、迷い苦しむ人々を救済すべく<釈迦の時代に還れ>という戒律復興によって実現したのが、この叡尊さん。そしてとなりはその弟子の忍性さん」。

 考古の部屋に移る。日本語の説明のみ。(大いに問題である。外国人の入場料を無料にしても説明がなければ国際理解にはつながらない)。

「これは、6世紀の奈良の地方から出土した鏡。そして、埋葬者の名前や出自を刻んだ墓誌。ご存じのように日本は四方を海に囲まれていて、文化はいたるところから伝わりました。中国で統一王朝が誕生する度に難民が船を仕立てて日本に来たでしょうし、拉致問題で明らかなように日本海沿岸は朝鮮半島と交通が容易です。奈良に都があったけれども、文化度においてはむしろ地方の方が先進的であったといえるのです。全国および県下の至るところから優れた遺品が出土しています。欧州はまだフランク王国もなくてローマの属領だったころですね」

 「これは鬼瓦、鬼で鬼を追い出すという魔除けの瓦で、8世紀の平城宮の建物に用いられていたものと同じ型式です」「お経を入れた金属容器です。法華経では、きれいな仏具や経典を作ると極楽に往生できると教えましたから、豊かな人や貴族たちは競って装飾しました」「エイアン・・永安時代????ああ平安時代ですね。この末期に源平の乱が発生、平家によって南都が焼き打ちされ、特に東大寺の復興に源氏は示威を兼ねて協力しました」

 大きめの金属の骨壷の次のコーナーで「先ほどのは実際の骨を入れた壺ですが、これは釈迦の骨を収めた金属製品です。
先ほど、<釈迦の精神に還れ>として南都仏教を復興した僧たちは特に釈迦の遺骨である舎利を尊重し、美しい容器を作りました。彼らはこの金工にみられるように技術者集団とともに動き、寺を復興し、仏像を造り、こうした装飾もお手のもので、古代から蓄えられた奈良の技術を全国に伝えました」「五輪塔、地・水・火・風・空というエレメントを表現したものです」
最後の密教法具に関しては「カトリックにも似た感じの祭壇がありますね」で大いに納得。
 
 ここで展示は終わり、昼ごはんにしようとなったので、まず、案内を兼ねて、博物館前の仏教写真ギャラリーを兼ねた「飛鳥園」に向かうが店は休み。開いていたらぜひ訪ねるように念を押して(念押ししなくても外観で十分魅力を伝えているが指摘されなければ気付かれない)移動。博物館の地下に「葉風泰夢(ハーフタイム)」という飲食スペースはあるが、ここよりは、やはり写真家とその夫人が経営する「夢しるべ・風しるべ」を周知すべくに案内。1000円以内が望ましいとのことなので900円の赤米カレーを注文。料理が出る前に、写真を展観。リービ英雄翻訳の万葉集に万葉の風景写真を合わせた美しい本が置かれていて「これは大使館にぜひ置いていただきたいものですね」。

 このふれあい回廊は、尾田組(水フォーラムの尾田さんはこの尾田組の長男)という伝統建築関係のゼネコンの社屋移転跡地を「幡・井上」が、東大寺の回廊に見立てた構成で、一番奥にこの企画者の店があり、川の流れを取り入れたテラスを備え、写真パネルが壁面を飾り、至る所見ごたえがあってかつ安らぐ。「もし、鉄道に関心があったら、ジオラマ模型に鉄道模型を配した喫茶店もありますよ」と外から一瞥して、徒歩で博物館前に戻り、「下下味亭(かがみてい)」という見晴らしのよい喫茶店でコーヒーをいただく。
 
 法隆寺に乗り放題のJR切符(どなたかこのシステムに詳しい方ご教示いただきたい。外国人対応でJR乗り放題切符があるようなのだが・・)でJR法隆寺駅に行き、そこから歩くのだという。外国語ボランティアも待機していて、ここのボラ外国語ガイドたちはあまり的外れではないのだが、「とりあえず、英語のガイドブックで動いてみる」ということで送り出した。
 
春日の一の鳥居周辺から三条通りに向かって歩いていると、「せんとくん」に異議を唱えて公募型の「まんとくん」を生み出し、現在そのプロデューサーをしているUさんがバイクで通りかかって声をかけられた。電話をかけてもなかなか連絡がつかないので、猿沢池畔にある奈良町センターの喫茶店まで移動して近況情勢交換。
 
 奈良女子大の事務棟にある放送大学の学習センターで諸原稿を印刷すべく、商店街で印刷用紙を購入して出向く途中、大宮通りの横断歩道で、高校の先輩で生活環境学部長時代に現代GPを有意義に展開した、まだ特任で授業も上野邦一奈良女子大学名誉教授とすれ違う。22日、ベトナムの住居に関して女子大で講演予定。
 
 目的であった印刷は印刷機が不具合で断念。代わりに韓国語テキストのCDを視聴して、その構成の巧みさを確認し購入または受講を決意した。
図書館の閉館時間となり、西大寺に向かう電車で、いまは消滅した新聞社で社主の秘書をしていた中国語の堪能な女性に遭遇。現在、奈良新聞ももう一つの非加盟も新聞も、かつて、阪神淡路大震災の救援金を集めて自分が経営する事務機会社のコピー機を送りそのリベートを得たということで奈良新聞が新聞協会から一時的に制裁された原因を作った同一オーナーの影響下にある。
 
 現在の紙面構成ではとても販売促進にはつながらない。経営難は明らかで、それによってさらに委縮していくことは奈良県そのものの機会損失を招くので、届かないとは思うが「裏から読ませる一流以上のユニーク紙面」を構成してきたものからアドバイスしておいた。

☆☆☆☆
 西大寺で下車し、ひさしぶりに「登良丸」という居酒屋に立ち寄る。
「さっき2人おられて本日はお客さまは3人。上で団体予約がありますけれど」という状態。
ここには現在りんくう文化センター善通寺生まれのN元NHK奈良放送局チーフアナウンサーや大手広告代理店の役員らが常連。「Nさんよく来ますか」「はい、昨日も来てました」「相変わらず、ベーラベーラお喋りでしょ」「そう、それで、だんだん、他の方たち帰られてしまうんですよ」。
さきほど頭のかたちが知己の僧侶に似た人が降りてこられて、私は「もしかして、Bさん?」と尋ね、女将は上品にその間違いを楽しむ表情を見せた。30分を経ても客は一人も来ない。
そこに初老の紳士が「一皿余ったのでどうぞいただいてください」としし鍋の具を持っておりてこられた。そして、私に、「おひとりで来られているのでしたら、ぜひ、ご一緒にいかがですか?」と誘っていただき、女将のすすめもあって厚かましく合流する。
 
 奈良西大寺赤田町という由緒ある土地にある、民主医療の拠点となっているY病院のドクターたちが10人近くおられて、「高校の同窓が100人近く医者になっていますが、お医者さんたちだけと新年会をするのは初めてです」と挨拶。「一学年で百人も医者になるなんて、どこの高校だ?」「T松というところで・・」と
話すと向いに私と同姓の「T」という大柄な若手医師がいて、「丸亀高校、坂出付属中出身」とローカルな話に進み、さらに、自治医科大の所在地が下野薬師寺跡にあるなど古代の国分寺と国府という文化と地方形成に関したの話をすると「ボク、国府のあった府中町生まれ」とT医師。
 
 丸亀高校野球部で「一番バッターT君」だったそうで、21世紀枠の高松ー宇部商業戦も観戦していたとのこと。「官僚になろう」と京大法学部に進んだが阪神淡路大震災のボランティアを通じて医師になることを決意、京大を中退、新聞奨学生をしながら島根医大を受験して医師になったということ。資格マニアでいろいろ取得。「行政書士」を持っているということもこれで納得。
「丸亀高校の先輩がこの店に来る!」という情報に目を輝かせてT医師はさっそく一階に下りて女将に「Nさんがきたら、近くの病院にいるからぜひ連絡するように」と伝えた。対応の迅速さがよくわかる。
 
 これで、女将はアナウンサーの職業病とさえいえる闊達すぎる舌すべりから当面解放され、異分野の情報収集と消化に十分な心身両面のキャパシティを備えたT医師は丸亀高校の先輩の雑多なおしゃべりを大いに喜んで享受することであろう。以前は、たまたま同じ日にいたところ、「部屋の真ん中に大きなヘビがとぐろを巻いている!」と電話をよこした、一人善通寺に残している母君に新しいケアサポーターを作る地縁形成につながるかもしれない。

1月14日、即座に記録すべきところであったが、本日1月17日午前5時46分に猫の命令で記録を始めた。一日の出会いの、これ以上はないといえる摩訶不思議さそのままに。震災が生んだ、元・一番バッターのT医師のこれからの活躍に大いに期待しつつ。


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